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 酒とパンダとごはんとコドモ。無理せずラクに、まいにちのくらし。

格差と貧困

格差・貧困と生活保護

格差・貧困と生活保護

最後のセーフティーネットである生活保護の制度が崩壊の危機にさらされている現実。
実施機関で申請を拒否される、または辞退届を書かされたために保護が受けられず、餓死した事件は記憶に新しい。
生活保護というのは、「健康で文化的な生活を営む権利」を保障するものであり、そのために必要な金額の基準がひとり世帯の場合およそ13万円程度。それが現在ではワーキングプア層の拡大によって、「働かないで保護を受けている人の方が豊かに暮らせる」という矛盾を生んでいる。本来働いて受け取る賃金がそこまで下がっていることが問題なのに、生活保護を受けることや実際に受けている人に対する世間の風あたりは一層強くなり、生活保護基準を引き下げるべきだという本末転倒な理論が繰り広げられている。
まあ実際には不正受給とまではいかなくても、そこまで困窮しているように見えない人もいるので、「水際作戦」はある程度必要なのかもしれない。でもその結果、権利を主張する意欲の強い人のもとには支給され、心身ともに疲れ果て本当に保護が必要な人のところには届いていないということになっているのでは・・・。
この中に、かつて多摩川の中洲で野宿生活をしていた人たちが台風で取り残され救助されたという件で、市民から「ホームレスを助けるのは税金の無駄だ」という意見が数多く寄せられたという話があった。川に迷い込んだ動物は助けても、同じ人間は助ける必要がないと考える日本の社会の意識が恐ろしいと感じた。特に保護を受けることなくギリギリのところで生活している人は、公的な支援を受けることのできる人に対して敵意を抱くことさえあるのかもしれない。
昨今、様々な場面で「自己責任」論が横行している。経済犯罪で被告人となった経営者が数百億円の資産を持ち続けることは「個人の努力の成果」だとみなされ、貧困は怠惰の結果だと切り捨てられる現状は、かなり異常かもしれない。
一旦貧困に陥ると自力で抜け出すことは非常に困難になっている現在の社会で、今後必要なのは貧困の連鎖を断ち切ること。貧困を理由に高校に進学できずに就職しようとしても、義務教育だけで社会に出た15歳の子どもに適切な職場がないだけでなく、本人自身が積極的に就労を選択したわけではないため意欲も低い場合が多く、貧困から抜け出せなくなっている。義務教育以上の教育は贅沢なものという認識を改め、将来の日本社会全体のために底上げをするために子どもに高校進学の援助をする取り組みもされている。
しかしながらこのご時世、無駄を省くことばかりが重視され、本当に必要な支援が必要な人の元に届けられることはますます困難になっているかもしれない。
本文中の「さまざまな理由で働けなくなった人々をその社会がどのように処遇するかで『社会の品格』は決まる。労働に参加できる人だけが、市民として尊敬される社会であってはならない。高齢者も障害者も野宿者も『労働要求』しか出せない今の日本は、どこか歪んでいる。」という部分に強い危機感を覚えた。